龍安寺の「つくばい」とは?
石庭で有名な京都の龍安寺がありますよね。
この龍安寺に有名な蹲踞(つくばい)があります。
「つくばい」とは、茶室に入る前に手を清める手水鉢(ちょうずばち)のことを言います。
そのつくばい、龍安寺では「知足のつくばい」と呼ばれています。
これです↓

上になにやら文字が書かれていますよね。
真ん中に四角の穴が開いていて、その周りを時計回りに見ると、
五→隹→止みたいな文字→矢
実はこれ、
吾→唯→足→知
と書いてあるのです。
4つの文字に共通する「口」の字を真ん中に配置しているのです。
なんともシャレたデザインですよね。
では何と読むのでしょうか?
吾唯足知(われ ただ たるを しる)
と読みます。
では意味は何でしょうか?
人の解釈によって若干ニュアンスに違いがありますが、私はまさに「自分にOKを出す」ということだと思います。
欠乏感が生きにくさを生む
私たちはとかく「足りない部分」にばかり目が行ってしまいます。
・知識が足りない
・能力が足りない
・経験が足りない
・お金が足りない
・物が足りない
・愛が足りない
などなど、満足感よりも欠乏感を強く感じてしまいます。

「なんて自分は足りない人間なんだ…」そんな劣等感を感じるかもしれません。
「足りないのはアイツのせいだ!」と周りの人のせいにしてしまうかもしれません。
「この環境が悪いんだ!」と置かれた境遇のせいにしてしまうかもしれません。
まさに欠乏感が自信のなさや、苦しみや悩みにもつながってしまうのです。
ではもし、自分にも他人にもOKが出せ、不足感や欠乏感ではなく、満足感を感じられるようになれたらどうでしょうか?
きっと、劣等感や不安、苦しみからも解放されて行くのではないでしょうか。
ただ…そうは言っても「自分に満足感なんてそう簡単に味わえないよ!」と思いますよね。
ではどうすれば、欠乏感だらけの状態から満たされている状態に進化して行けるのでしょうか?
欠乏感から抜け出す方法
私たちは、隣の芝生が青く見える生き物です。
ついつい自分にはないものへ意識が向いてしまい、その「外への意識」が欠乏感を助長させてしまうのです。
だからこそ「吾唯足るを知る」のです。
すでにある物、ある事、ある人に意識を向け、その存在を知るのです。
この意識が大切です。
例えば、健康だった人が急に病気になってしまった。すると、今までは健康な状態が当たり前だったけれど、それを失って初めて「あぁ健康な状態ってありがたかったんだな」と気づけます。
当たり前にいた家族が亡くなって初めて、「あぁ家族って大切な存在だったんだな」と気づけます。
人は失って初めてその大切さに気づくのです。すでにあった事に気づくのです。
だとしたら、今すでにあなたにあることに意識を向けることで、「あぁ自分には○○があったんだ!」と気付けるのです。

・当たり前のように寝られる家があること
・当たり前のように食事を取れること
・当たり前のように食事を作ってくれる人がいること
・当たり前のように歩けること
・当たり前のように買い物ができること
・当たり前のように仕事があること
・当たり前のように家族がいること
・当たり前のようにインターネットができること
などなど、すでにあることに意識を向けるのです。
そうすると、どんどん自分の中の「足る」が増えて行き、欠乏感は減り満たされて行くのです。
そして足りているものに「感謝」をすると、さらに自分にも周りにもOKが出せるようになって行くのです。
あなたもぜひ、「当たり前」や「普通」の中に隠れている「足る」を知ってくださいね!


人生改造の専門家&心理セラピスト
中村壮志
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